自分にとって1年のうちで最もせわしない数か月が終わり、このブログに頭が向いた。なんと早いもので今日で半年が終わる。定期的に書いていく自信は全くないが、不定期ながら少しは書き継いでいきたいので、よろしくお願いします。久しぶりに書くものが、またあの御仁(一国の元首に対して非礼かもしれないが)に関するこんな内容で、その忸怩たる思いと、あの御仁を全く無視することができない自分に腹が立ちつつ。
喧嘩をおっ始めた二人がおったとさ。一方に肩入れする別の輩が、「おい、俺に任せろ。一発殴ればあいつは大人しくなるから」。その一発で喧嘩は収まったとさ・・・。
言わずと知れた、イスラエル、イラン間の戦争に、米が介入した出来事。そもそもこの戦争、本当かどうか分からない(私には事実を検証のしようがない)理由を付けて、国際法を全く無視してイスラエルが一方的に始めた。これに更に国際法に違反して米が介入した(集団的自衛権の行使だと言い張っているが)。そんな無体なことが許されるのか。米は「力による平和」と嘯いている。かつてこの言葉を使ったレーガン政権は、強大な軍事力を背景に戦争を抑止するということで、実際に軍事力は行使しなかった。時代背景や米の置かれた事情の違いなどがあるのかもしれないが、実際に武力行使をしたのは、単にエゴイズム、志の低さ、国際的な政治力の無さ、人類全体に対する愛情の無さ、コンプレックスの裏返し等々(つい書いてしまった(笑))の顕れではないかと勘繰りたくなる。あの御仁が声高に自分の成果だと吹聴して、とりまきの提灯持ちがヨイショをするのはいつものことで失笑するだけのことだが、あろうことか広島・長崎を引き合いに出してなぞらえた。違うだろ!(怒)。無体な一発を食らったイランは、取り敢えずは乱暴な仲裁に従うように見えても、それで済むだろうか。国会がIAEAへの協力を止める法案を可決したと報じられた。核兵器開発をしていたとすれば、これまで以上に地下に潜る(文字通り?)ことになる。暴力は暴力を呼ぶ。紛争の火種は燻っている。米自体も、泥沼にはまり込んでいくのではなかろうか。
こうした無法な戦争(そもそも戦争は無法だが)は、3年前、いや11年前からのロシアのウクライナへの軍事進攻のみならず、人類の歴史を振り返れば、おぞましいことだがいつの時代にでもあった。割り切れない思いの自分は、戦後80年の平和呆けなんだろうか。軍靴の音など聞きたくもない。自分はあまり先は長くないだろうから戦争に巻き込まれるようなことはないとは思うが、子や孫はどういう将来を生きていくのだろう。